ニューヨーク恋物語
第8章 横浜編

みなとみらいでの最後の夜は終わった。
昨夜、ホテルの部屋から見下ろした夜景は
たぶん二人にとって生涯忘れられないような気がする。
いつまでもこのスイートルームでいたかったが
もうそんな時間は残っていなかった。
早々にホテルをチェックアウトすると
二人は今日子のマンションに戻った。

昨日は予期せぬみなとみらいでの夜だっただけに
出発の用意は何も出来ていなかった。
部屋に戻ると、二人はスーツケースに荷物を詰め始めた。

「会社の書類はみんな寝室の机の上にまとめてあるわ」

「梅干とちりめん山椒を少しだけ入れておく」

「土曜日までの分のワイシャツはすべてアイロン掛けしてあるわ」

「この紙袋はニューヨーク支店の人たちへの日本みやげ」

「あなたすぐにお腹壊すから、整腸剤入れておく」

「ネクタイ、新しいのを2〜3本買っておいた」

今日子はまるで大沢の秘書のように動いてくれた。
年は下でもいつも姉さん女房のようだった。

この一週間、仕事をしながらずっと大沢の世話をしてくれた。
たぶん眠る時間など、ごくわずかだったに違いない。
けれど朝になると明るい笑顔で「おはよう!」と言ってくれた。

荷物の準備が整うと今日子は大沢に言った。

「ねえ・・・ この部屋の鍵を持って行って」

大沢は言葉の意味がわからなかった。

「時差があるからたいへんだけれど
 この鍵で毎晩私の部屋に浸入して。

 私、あなたを待っているわ」

「毎晩浸入していいの?毎晩オオカミになっていいの?」

「そうよ。でもニューヨークのオオカミは優しいの。
 泣いている私の涙を拭いてくれ、怒っている私の気持ちを静めてくれ
 笑っている私と一緒に笑ってくれ、落ち込んでいる私を励ましてくれ
 哀しみは二分の一に、喜びは二倍にしてくれるの

「赤頭巾ちゃんのオオカミとは大違いだ。 
 僕は正義の味方のオオカミなんだ」

「この鍵で毎晩私の心の扉を開いて、私の心に触れて」

「わかった。
 ニューヨークのオフィスのランチタイムが丁度日本の真夜中だ。

 オオカミはランチもしないで今日子のところに来るよ」

大沢の心を繋ぎとめようとする今日子の女心がいじらしかった。
この鍵は今日子の心の扉を開く鍵。今日子のSOSを開く鍵。
大沢は大切に背広の内ポケットに入れた。


横浜から成田までの道のりは今日子が運転した。

今日子はいつも安全運転だった。

「ユーミンをかけると寂しくなるから、FMラジオでいい?」

ユーミンの曲には思い出がたくさんありすぎた。
お互いが知り合う前の学生の頃から好きだった。
アルバムが出ると真っ先に買って二人で聴いた。
レジェンドの中ではほとんどユーミンしかかけなかった。
そして二人で、湘南や横須賀や茅ヶ崎に出かけた。
時には房総の方まで車を走らせた。

代わる代わる車を運転して
今日子をサイドシートに乗せるとナビゲータより詳しいナビをした。
地図にない道を冒険しながら目的地へ行くのが好きだった。
守りの姿勢の大沢に対して、今日子はいつも攻めの姿勢。
大沢の不安をよそに
今日子はナビゲータを無視してどんどん自分流のナビをしていった。
今日子といるといつも多くの発見が出来た。
そんな前向きな今日子がとても好きだった。

高速道路は渋滞もなく、車はお昼過ぎには成田に着いた。


二人は出発ロビーのソファーに腰を下ろした。

「私、夏休みを取って、ニューヨークに行くわ」

「待っているよ。早く今日子にニューヨークを案内したい。
 今日子と行きたい場所がたくさんある。
 ニューヨークの夜は世界のどこよりもエキサイティングだ。
 自由の女神、セントラル・パーク、マンハッタンの夜景。
 ウエストサイドやイーストサイド・・・ 」

「ミッドタウンに通称リップスティック・ビルと呼ばれるビルがある。
 遠目に見ると、ビルが口紅の形をしている。
 そこにとても美味しいフレンチレストランがる。
 他にも素敵なカフェがたくさんある。
 ニューヨーカーはその時のシーンに合わせて上手にカフェを利用する。
 今日子にそんなニューヨークを見せてやりたいよ」

「夏の終わりにきっとお休みを取るわ。そしてニューヨークに行く」

出発ロビーにアナウンスが流れた。

「15時30分発、ニューヨーク行きノースウエスト18便
 只今、搭乗手続き中。出発の方はお急ぎください」

大沢は席を立った。

「お酒の飲み過ぎに気をつけて」

「朝のコーヒー、ブラックはダメよ」

「食事はきちんと取って」

「どんなに疲れていてもシャワーは浴びて」

「雨が三日以上降ったら、私たちのてるてる坊主を吊るして」

今日子の口から止めどなく言葉が続いた。

「いつもメールして」

「いつも私を想って」

「いつも私を愛して」

「I Love You と言って」

今日子は大沢に向かって懇願した。

「わかった。すべてわかった。今日子の言う通りにするよ」

今日子は目を潤ませた。

「私、泣いてなんかいない」

精いっぱいの強がりを言った今日子の頬に涙がこぼれ落ちた。

そして二人はもう一度しっかりと抱擁して別れた。


今日子は展望デッキから大沢の乗った飛行機を見送った。

飛行機はゆっくり滑走路を移動し始めた。

15時30分発、ニューヨーク行きノースウエスト18便。
定刻どおりの出発。

大沢を乗せた飛行機は空の彼方へ消えて行った。

BGM (Thank You)
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